有田焼の歴史(1)

1616年、陶祖 李参平によって白磁鉱発見

有田焼の始まりは、豊臣秀吉の朝鮮出兵に遡ります。足かけ7年におよぶ無益な戦いは秀吉の死で幕を閉じますが、このとき多くの大名が、朝鮮半島から陶工を日本に連れ帰りました。佐賀藩の鍋島直茂(なべしまなおしげ)も例外ではありませんでした。
そして元和2(1616)年、有田の泉山で、陶工の李参平(りさんぺい)が白磁鉱を発見し、日本で最初の磁器が焼かれたといわれています。 朝鮮半島から連れて来られた陶工たちは有田に定住し、李朝様式から中国様式、染付、白磁、青磁といったさまざまな手法を次々に消化しながら、磁器の製法に磨きをかけていくことになります。

原料だけではなく、焼成の技術があったことも、他地域と差をつけた理由の一つと言えます。穴を掘り、トンネルのような窯をつくる「穴窯」が主流だった時代に、山の斜面を利用した「登窯」(のぼりがま)が登場。階段状にいくつもの焼成室が連なる登窯は、単室の窯と比べて熱効率が良く、一度にたくさんの器を焼くことができるため量産が可能でした。

1646年、日本初の色絵磁器が誕生

正保3(1646)年には酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)らが、赤、緑、黄などの絵具で文様を描く赤絵付けに成功し、日本初の色絵(上絵)磁器を生み出したとされています。
17世紀後半、当時、中国で最高技術を誇っていた景徳鎮(けいとくちん)窯が衰えたため、慶安3(1650)年オランダの東インド会社が有田焼を買い付けた背景もあり、古伊万里はヨーロッパの王侯貴族を中心に広がっていきます。
有田皿山で作られた製品が伊万里港から積み出されたために、有田焼は通称「伊万里焼」あるいは「古伊万里」と呼ばれるようになりました。これが有田焼が伊万里焼と呼ばれる由縁です。

ヨーロッパでの古伊万里は、それ自体を愛でるというより、宮殿を装飾するインテリアとして用いられていました。特にドイツのアウグスト強王は驚異的な古伊万里のコレクターで、手に入れるため、自分の兵隊を売り払ったほど。
アウグスト強王はやがて、マイセンでの磁器開発を命じます。これが現在の国立マイセン磁器製作所にあたります。

開国後はジャポニズムの担い手に

そして明治時代には、欧米諸国で開催されていた万国博覧会に有田焼も積極的に出品され、各国の人々を魅了しました。

昭和51年柿右衛門製陶技術保存会および、色鍋技術保存会が国の無形重要文化財保持団体として認定され、さらに昭和55年天狗谷窯跡、山辺田窯後、泉山磁石場が国の史跡に、また平成3年には上有田地区の町並みが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されるなど、有田焼をとりまく文化が町内外の人々に認められてきました。これからも先人の足跡を見落とすことなく、その大切さをしっかり受けとめて、この伝統を守りつづけて行かねばなりません。

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